うえだ通信
因果応報
過去の行いが将来己の身を滅ぼす。
歴史好きの私がこの事例を2つ紹介する。
- 豊臣秀吉
私の父母が眠る尼崎の法園寺は戦国武将佐々成政切腹の寺として有名である。
肥後の国の治政の不始末を時の天下人豊臣秀吉に咎められての事だ。
佐々家は代々織田家家臣の家柄で桶狭間の戦いで討死にした兄の後を継いで小城ながらも比良城主となったのが成政。
成政は若手武者集団である信長親衛隊リーダーとしても黒母衣衆10人の筆頭として活躍したのが1550~1560年の頃。
一方、木下藤吉郎が小者として織田家に仕え始めたのが1554年。
この時点で、成政との差は比べものにならない位開いていた。
その12年後藤吉郎が墨俣一夜城建設に成功するのが1566年。
以後秀吉の目覚ましい活躍があり、織田家中の両者の立場は大きく変わる。
本能寺の変(1582年)の時期、秀吉は中国方面軍司令官、一方成政は北陸方面軍司令官柴田勝家の下で働く与力武将だった。
秀吉の小者時代から先輩である成政は家格の違いもあり「軟派なお調子者」と見下していた。
両者は相入れない関係でイジメの事実もあったという。
- 徳川家康
今川、織田両家に挟まれた三河の国の弱小大名の家に生まれ、
両家に人質とし捕らわれ幼年時代を過ごしたのが家康6~19歳の頃だ。
ところが1560年桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れた。
これを好機として、今川を離れ織田と同盟を結び戦国大名として成長。
最後には天下をとることになる。
遡って今川人質時代、今川家家臣の孕石主水の屋敷に竹千代(家康の幼名)の鷹が何度も迷い込むことがあった。
主水はその度に竹千代を叱責した。
竹千代はこれを恨みに思い、30年後に高天神城で捕らえられた主水を許すことなく切腹させた。
成政にしろ主水にしろ立場の弱い目下の者をイジメると、
その者が思いがけなく成長、出世した時、目下であった者はその過去を決して忘れない。
菜園だより
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近所の人からシイタケの原木を頂きました。 少しだが収穫が始まった。 |





